2016年1月29日金曜日

ハッピーエンドからはじまるもっとすごい恋物語



人は誰でも多かれ少なかれ傷ついています。
だから完全な人はいません。

その傷は身体の傷のように見えないので厄介です。

だからこそ、愛すること、愛されることが必要なのです。



たとえば、「シンデレラ」にしても「プリティウーマン」にしても、女性が男性にアプローチされるところで終わりですね。女性にしたらアタックされているときが最大の幸せですね。これほど自分に自信が持てるときは生涯を通じてないかも知れません。マリッジブルーが発生するも無理がないといえます。あとは下り坂しかないかも知れません。そこで人生のよろこびを別なことに求める。

でもこれではつまらないでしょう。アタックされている状態よりも、もっともっと幸せなときを持てるようになりたいですね。

これからの時代は、そういう時代だと思います。

もっと、もっと女性として自信が持てるようになるにはどうあればいいのでしょう。
もっと、もっと確かに自分を肯定できるようになるにはどうあればいいのでしょう。


それはなんでしょう?

その女性の価値を一つ残らず見つけてあげて、一つ残らず讃えてあげて、一つ残らず愛してあげるようにしてあげたらいいのではないでしょうか?そうすると、その女性の価値は自然に増えていき、エンドレスで愛せるのではないかと思うのです。

ほとんどの人は日々の忙しさのあまり物事に気をとられ、自分自身も含めて人を見ていません。だから物事が優先されて、人が後回しになり、人のせいにして、一件落着にします。

人と人のふれあいである恋愛も、恋愛成就、結婚ゴールインという物事に成り下がって一件落着して、関心は、また違う物事にすり替わっていく。あるいは違う人と同じことを繰り返す。

そうではなくて、アタックを永遠に続ける覚悟がお互いに必要なのではないでしょうか?

高倉健という虚像を実像にする精進を死ぬまで続けた高倉健さんのように、言葉や想いの「愛」を「愛そのもの」にする精進が仕合わせなのだと思います。

へんなオチかも知れませんが、健さんの話にこういうのがありました。
「深夜の劇場に行ったら、スケジュールに追われていい加減にやった自分の出演映画に、満員の観客が拍手喝采している。これはなんだ。と思いましたね。」というエピソードです、

想像ですが、そういう光景に触れながら、自分は観客のバイブルになっている。決して観客を裏切ってはいけないと思ったんではないかと思うのです。




好きな男性にアタックされて幸せの絶頂にいる女性を裏切らない生き方をする覚悟と精進。それを幸せと思う生き方が仕合わせなにではないかと思うのです。

それは手作りの白雪姫物語









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