2011年3月31日木曜日

【トリッキーな交流】仲間割れ

トリッキーな交流のひとつ、「仲間割れ」もドラマティックな三角関係のひとつです。
一般的に、人は内面で起こっている葛藤を解決するために、心の中で悩やんだり、身体の症状に出したりするものです。
ところが心に深い傷を持っていたり、強い不安があると、内界から外の世界に投影して安定を図ろうとします。内面の葛藤を外の世界に置き換えるのです。

たとえばAという人は本人に対して同情的になりますが、Bという人は反対の立場になり、両者は対立するようになります。
この対立こそ本人の内面で起こっているアンビバレンスな状態なのです。

対立が起こる原因は、本人が両者に矛盾する情報を投げかけて、それぞれに誤解を植えつけていくからです。両者は共に本人を助けることができなくなります。なぜそのような非生産的な状態を作るのでしょう。本人にとってメリットがありません。

これは、そもそもの目的が本人にある「他者否定」の構えを確認することにあるからです。他者を対立させて、漁夫の利を得ようとしているわけではなく、対立する姿を高みの見物で「バカな奴ら」と見下すことにあります。

このような仕掛けをする人はなかなか変われない人ですが、支配され対立してしまった人たちが自分たちの考え違いや行いを客観的に反省し、問題解決のために関係を再構築できるようであれば、本人にプラスのストロークを与えられるチャンスに転じることもできます。

それはアンビバレンスな状態からネガティブなストロークを選ぶ習慣しか持たない者にとってはまさしくサプライズであり、再生のチャンスになる機会を持つことになります。

目 的:他者の間に対立を誘い、自分は第三者として高みの見物。他者否定を確認。
仕掛け:抗議、うわさ、陰口、
カ モ:ライバル関係にある人、挑発されやすい人
平行期:三角関係ができるまでの期間
交叉期:自分外の他者が対立
混 乱:仲間割れ
結 末:バカな奴らと見下して他者否定を確認



2011年3月30日水曜日

【トリッキーな交流】法廷(裁定)

三角関係のひとつ「法廷(裁定)」は、三人が被害者、加害者、支援者の役割を、裁判のように原告、被告、裁判官に置き換えて争うトリッキーでドラマティックな交流です。
原告に非があるのを第三者である裁判官を巻き込んで相手(被告)をやりこめるものです。

裁判官となる人は、なんらかの結論を出すことになりますが、場合によっては何も解決できないまま、かえって事態を混乱させることになります。本当のところ何も分っていないまま、原告の言い分を思い込んでことを進めようとするからですが、そこで被告の言い分と食い違いが生じて、なにを信じていいのか分らなくなるからです。つまり裁判管になる人は客観的に判断できる経験と知識、そして冷静さが必要なのです。

ところが自己顕示欲の強い人が自分の権力を示したい欲求にかられて裁判官になりたがる傾向が強く、結果的にかえってひどくする場合が多いのです。

「法廷」は、こどものケンカから国際的な紛争まで規模は様々ですが、他のネガティブなコミュニケーション「追いつめ」「決め付け」「早合点」「ひどいもんだ」などと結びつくこともあり、最悪の事態になだれ込むこともあります。

また裁判官の思い込みと能力の乏しさに嫌気がさして被告が泥沼化を嫌い泣き寝入りすることも少なくありません。状況によっては被告が原告をかばい一切主張しない場合もあります。あるいは原告が追いつめられて、法廷に持ち込みたくないのに、裁判官が裁定を下してしまうこともあり、原告と被告が取り返しのつかない深手を負う場合もあります。

あるいは裁判官になった人が、思うような結果にたどり着けず、批判されることも少なくありません。場合によっては、裁判官が自己否定感に苛まれる場合もあります。
裁判官はどのような場合も、何のための法廷なのか、よく理解しておく必要があります。

あるいは意図的に第三者が介入して、恐喝などのように、片方に不利なように運ぶことも少なくありません。欧米では医療訴訟が深刻な問題になっています。
三者の人間性、能力のバランスがとれていないと「法廷」によってかえってうまくいかなくなることを心してかからなければならないのです。

一般的に「法廷(裁定)」の目的、プロセス、結果は次のようになっています。

目 的:自分が悪いのを棚にあげて、他者の力を使って、相手をやりこめる
仕掛け:他者に裁定してもらうように問題を持ち込む
カ モ:裁定を引き受けたがる人物と加害者にされるお人好し(被告にされる人)
平行期:原告、被告、裁判官が話し合っている時期
問題期:仲裁者(裁判官)が裁定したとき
混 乱:不当判決をめぐってのトラブル
結 末:原告の勝利

2011年3月27日日曜日

【トリッキーな交流】三角関係

 人間関係がこじれるときに生じるトリッキーでドラマティックな三角関係についてお話しましょう。

三角関係は、本人が意図していないのに、無意識の行動によって関係を三角形に誘導していき混乱を招くという習慣化した行動パターンという点で、興味深いものです。

似たような現象は生態系に多く見受けることができます。生態系の不思議は生存するために、調整する機能を持っていることです。いまは高山に咲く花も、かっては低地に咲いていた花があります。人間の身体も環境の合わせてバランスを整えようとします。温度が上がる夏に汗をかくのもそのひとつです。

 身体が調整機能を持つように、家族や集団も調整機能を持っています。家族内に身体的または精神的な障害を持つこどもがいる原因を探ると、夫婦間の不仲があったりすることは珍しくありません。病気になることで、家庭の崩壊を救っている例はいくらでもあります。心身症の代表格であるこどもの喘息の場合では、その原因が親の態度にあることもよく知られています。

トリッキーでドラマティックな三角関係は、バランスをとる典型的な形です。

・犠牲者の役割を演じる者
・支配者の役割を演じる者
・救援者(あるいは支持者)の役割を演じる者

以上の役割を演じる三角関係が作られます。

 たとえばこどもが喘息を患っている場合、病気になる以前は、こどもが犠牲者、母親が支配者、父親が支持者といったポジショニングで家族のバランスが保たれていることは少なくありません。しかしこどもが病気になると、役割が入れ替わったりします。

まず母親に対して子育てに間違いがあると批難され、支配者から犠牲者に代わります。一方被害者であったこどもは一転して支配者に代わります。家族はこどもを中心に過ごすことになるからです。こどもは病気を理由に好き勝手を主張します。

しかし、こどもに症状が軽くなってくると、両親の間で、子育てを理由に、攻撃し合い犠牲者と支配者が入れ替わり、こどもが救援者(あるいは支持者)になります。

このように三角関係の役割交替は止まることなく続き、家族の均衡を保ちます。

家庭だけでなく、三人以上の人が集まったところで、それぞれの役割を演じる三角関係が起こってきます。その中心にいるのが「支配者(加害者)」です。人を思い通りに支配したい欲求の裏には、合理性とは関係なく、その人特有の価値観から生じている不安、不信があります。無意識に人間関係をこじれさせ、結末(目的)に誘おうとするのです。誰かが「自分はダメな人間」と思わずにいられない結末が用意されています。

 ドラマティックな三角関係が出来上がる背景には、必ず人間関係をこじれさせ、無力感を味わうはめに陥るネガティブな意図を持った人が存在しています。その無力感こそ仕掛けた人の根底にある脱ぐいきれない感情なのです。

2011年3月25日金曜日

【トリッキーな交流】私を笑って

「私を笑って」は、一生懸命に努力をするものの、肝心なところでミスをやってしまうトリッキーな交流です。このようなことはよくあることですが、特徴的なのは、反省の色が伺えない。注意されていても聞いているようで聞いていない。
肝心なところでダメになっても自嘲気味にニヤニヤ笑って終わりという感じの人です。
目的は、幼児期からの「自分は失敗者」というイメージを確認し、自己嫌悪、自己否定感を味わうことにあります、ですから繰り返しいろんな失敗をしても、止まりません。

このタイプの人が失敗しても、笑わないことが救う手段になります。笑ってしまうと相手のペースにはまって後押しすることになります。調子を合わさないことが重要です。



2011年3月23日水曜日

【トリッキーな交流】ヒステリー糾弾

 トリッキーな交流のひとつ、「ヒステリー糾弾」は政治ではすっかりおなじみになったゲーム的なコミュニケーションです。失言による辞任などドラマティックな結末が用意されています。最近では、民主党大臣の相次ぐトラブルがそうです。毎日マスコミにとりあげられています。

また人気タレントのトラブルが発覚するや、これまでの好意的なスタンスをひっくり返しよってたかって引きずり落とすというのもそうです。酒井法子さんの事例などがその典型です。

日頃から敵意を持っている相手にミスや落ち度を見出すと、攻撃的に責め立てます。

敵意のある相手とは広範囲に及び、好意はあるが思い通りにならない相手も含まれます。このゲームの本質は支配することを抑圧していたことから起こる「権力ゲーム」といえます。本当はその立場に自分がつきたいという嫉妬と羨望があり、相手をそのポジションから引きずり下ろしたい欲求が潜んでいます。

また人が傷つくのが楽しいというサディスチックな欲望があることも少なくありません。
これらの背景には深い自己否定感があります。

子供が受験に失敗すると、「もう進学なんかしないで働け」と一転するのもそうです。日頃からの親の子供の対するストレスが一気に噴出したものですが、その背景には親の支配欲、幼稚さが隠れています。

あるいは子供ができることを子供に代わって相手を攻撃する場合も、相手を攻撃するだけでなく、自己顕示欲と子供のポジションへの鬱憤、サディスチックな怒りが潜んでいます。

本来、親の心、大人の心から、相手の大人の心に向かってコミュニケーションするべきものです。「ヒステリー糾弾」の場合では、表向きはそうであっても、実際には、子供の心から相手の親の心にコミュニケーションしている場合が多いのです。そのため、どのような言葉を使っても、本心が相手に届くので後味の悪いコミュニケーションになります。

なぜ本心が届くのでしょうか?本心を届けるのが目的だからです。
その背景には、嫉妬、抑圧、自己嫌悪感があります。

2011年3月22日火曜日

【トリッキーな交流】共倒れ

 基本的な構えに「自己否定」または「他者否定」があると愛情の希求も、率直さを失いネガティブなものになります。

愛情はポジティブな性質のものなので、いかなる理由であっても、ネガティブな愛情関係は、決していい結果になることはありません。愛情行動で感情を言葉で表現できない人、使えない人の場合、ラケットを使って行動をせずに相手に行動させることが多くなるのでトラブルに発展する確率が高くなります。

ラケットは精神世界を破壊するギャングのようなもので、相手を支配するために使いますが、同時に自分を縛りつけてしまい、小さなことでも積み重なると人生を狂わせてしまいます。

嘘もその範囲に入ります。
嘘はネガティブなものですが、いくつか目的の違いがあります。

相手をだまして利益を得るもの、
自分を守るためにつくもの
相手を守るためにつくもの
気を引くためのもの

相手を困らせることで気を引こうとすると人がいます。しかし、いくら気を引いても、気を引くことは目的ではなく手段でしかないので、願望が達成されるわけではありません。このような発展を閉ざした関係の先にドラマティックな脚本のひとつ「共倒れ」があります。

「共倒れ」とは、愛情を希求する両者の間で起こる「共依存」が原因のトラブルです。やりきれない事実を抱えて救いを求める者と助けようとする側の忍耐と愛情によって成立します。

 父親と幼くして離別して、その問題が未処理な女性がいました。表面的には何の問題もなく健康的に見えても、痛々しさを敏感に察知する者がいるものです。一方、女性は男性に丸抱えの役割をさせる魅力を備えていました。

この両者が教師(男性)と生徒(女性)という関係で出会いました。コケティッシュな態度、ネガティブな態度で男性の心を奪いました。男性はセクシャルな問題よりも、助けてやりたい思いが強かったのですが、相手との間でなにが起きているか、徐々に見えなくなってしまいました。相手が求めている愛情の質も混乱してきます。

やがて男性は、献身こそが得られなかった父親の愛情であり、女性が求めるものであり、彼女の空白を埋めるものだと強いこだわりを持つようになったのです。自分がするべきことは父親がしなかったことの補足だと考えたのです。男性は第三者の目で客観的に自分を観ているつもりで自分のコントロールができている考えていました。しかし女性の行動はが、手段が目的化していくにつれ、男性が自分を失ったのも確かでした。両者それぞれに手段が目的化してしまったのです。

 「丸抱え」は非常に難しい問題です。描くイメージが「美談」であっても、実際には非常に困難です。限りのない献身はほとんど不可能です。背景に根強い「不信」がある場合は一層困難です。

関係が深くなるほど、相手のペースに巻き込まれ、ついにはお手上げの状態に追い込まれ、最後には相手が持っていた「不信」を強める結果になり、さらに強い支配欲を持たせてしまう原因になる可能性が高いのです。

2011年3月20日日曜日

【トリッキーな交流】思い込み

 トリッキーでドラマティックな交流である「思い込み」は、最初に「悪者」を決めておき、自分を被害者に仕立てあげ、原因を「悪者」にして幼稚な合理化で割り切ってしまおうとするトリッキーな交流です。

「あばたもえくぼ」というように、極度の理想化したイメージを相手に描いて追求すると、失望するが一般的です。一般に善と悪は混在しているものですが、認めると不安の原因になる部分を切り捨てて無意識ながら故意に安心を得ようとするのです。

 思い込みは、いわゆる勘違いではなく、自分にとって都合の悪い部分(不安、恐怖)を排除して、ありもしない完全さをイメージすることで、内心の不安を忘れるためのトリックなのです。

 知り合いの男性は、常日頃から「あの上司のおかげで、自分の能力は発揮されない」と上司のことを不満に思っていました。ところがその上司が都合で退職し、自分がそのポストに就くと、出社拒否をするようになりました。この男性は上司を悪者にすることで、自分の不安を忘れていたのです。

 同じような「思い込み」のトリックは、いたるところに見受けられます。

仕入先への不満を年中唱えている会社のトップは、本当の不満は社内の幹部連中に持っていました。しかし自分の欲求を率直に伝えられない不甲斐なさを、仕入れ先を攻撃することで、自分に対して不甲斐なさを隠していたケースもそうです。

こどもが不登校になった母親の相談を受けたとき、兄との子育て方法が違うことを指摘したところ、頑なに否定しました。彼女はご主人との不和を覆い隠すために、こどもに過干渉になっていて、問題を引き起こしていたのです。行動を変えるように促すほど不安が増し、防御するためにヒステリックになるばかりなのです

何度も同じような「失恋」を繰り返し、仕事に身が入らない状態に陥り、仕事への意欲のなさを自分に隠していた人。
同じく「失恋」を繰り返し、結婚から逃げている人。
自分に問題がなく、女性が異常だと唱えるばかりです。隠す目的は違っても同じことの繰り返しには何らかの目的が隠されているのです。

他社の成功事例をあげて、コンサルタントの指導が悪いと不満を言う社長、実はコンサルタントが同じ改善を繰り返し提案しているにも関わらす、リスクを恐れて実行できない自身の停滞をコンサルのせいにしているのです。

 「思い込み」は個人のレベルで起こるのではなく、より大きなレベルでも起こります。
政治の世界では頻繁に起こっていて、自分たちの政策能力の不足を隠すために「悪者」を限定し攻撃するのは日常的になっています。

 「思い込み」は「責任転嫁」とよく似ていますが、「責任転嫁」が自分のミスや落ち度を他者のせいにするのと違うのは、不安や恐怖を主に自分に対して覆い隠すことを目的にしている点で、よりトリッキーです。その分、指摘されても受け入れることが困難で改善がままならない分、デメリットになります。

 人は不安になると、単純な思考に陥るものです。人は善と悪が混在しているのが一般的です。善と悪を切り離し、どちらか一方を悪者扱いにすることで、極端に理想化することで、あれさえあれば・・・」というように構造化してしまうことは、ないものねだりであって、ないものをねだることで必要な行動をとらないことは「逃げ」以外のなんでもありません。

「ないものねだり」と目標を持って行動することは全然違います。「ないものねだり」は行動しないための口実にすぎません。目標を持って行動することは、実現、達成を求めています。また目的と目標も混同されやすいのですが、目的は抽象的です。目標は目的の下位にポジショニングされるもので、目的を実現するための具体的なもので、数値化しやすいものです。

たとえば「なれる最高の自分になりたい」が目的だった場合、目標には「英会話ができるようになりたい」というように設定できます。それ以外にも複数の目標が設定でき、それぞれ数値化できます。

 幼い頃から自分を受け入れてもらい、安心できる環境に育った者は、人間は矛盾した存在であることを自然に受け入れることを学んでいます。完全でなくても受け入れてもらえることを体験で知った者と、そうでない者では不安や恐怖に直面したときの対応に違いが出ます。

 完全、確信が得られる場合には行動できるが、リスクのある場合にはパニックになるというのは、受け入れてもらった体験が不足しているので、自分が自分を受け入れていないために起こることなのです。「思い込み」は逃げるためのトリッキーな手段なのです。

ですからトリックが効果を発揮している「悪者」がいる間は、問題は水面下に隠されたままです。問題が表面化するのは、「悪者」がいなくなってからです。問題が取り除かれたときに、水面下に隠した問題が表面に表れるのです。
因果関係に矛盾が生じてつじつまが合わなくなります。新たな「悪者(原因)」を作ることで水面下に隠そうとしますが、やがてはそれも通用しなくなります。どちらにしても非合理の合理化のムリは最期には立ち往生を迎えます。待っているのは孤立です。一刻も早くトリッキーな交流をやめることが自身の弱点を強化するきっかけになります。

2011年3月18日金曜日

【トリッキーな交流】責任転嫁

 「責任転嫁」は、自分の不始末、ミスを他者のせいにするものです。
よく見かけることの多いトリッキーな人間関係をこじらせるゲームです。
一概に「責任転嫁」といっても、レベルはさまざまで、主なものには次のようなものがあります。

・夫婦間の責任転嫁
・こどもの問題で、父親と母親の間で行われる責任転嫁
・若者が自分の非を社会、学校などのせいにする責任転嫁
・病人が症状の悪化を家族や治療者、病院のせいにする責任転嫁
・親、兄弟なのが自分の過ちをこどものせいにする責任転嫁
・家庭内暴力、幼児虐待に発展した責任転嫁
・自分が依頼した人が期待通りの結果を出さなかった場合の責任転嫁

 共通しているのは、本来は自分に主導権があるということ。にもかかわらず実行できない場合、その理由を他者の責任にする点です。

自分が主体性をもって実行すればいいのに、しないでおいて、その責任を他者に押し付ける。なかでも「自分が依頼した人が期待通りの結果を出さなかった場合の責任転嫁」は上司と部下の間で頻繁に起こることですが、部下の責任にするには結果的に信頼を失います。上司と部下の間では、ほとんど上司側に責任があるものです。

 特に指示の曖昧さは問題になります。どのようにも解釈できる指示は、後になって「そのくらい○○○○と解釈するのが当たり前でしょう」と言っても、出した方に責任があります。誰が聞いても同じ解釈するように考えて指示するのが上司の責任です。

 相手の罪意識を刺激して、自分の罪意識を転化するのも、巧妙でトリッキーな責任転嫁です。これをやる人は日頃から自分がするべきことをしないでおいて、問題が生じると他者の欠点を指摘して攻撃するのが得意です。自己顕示欲の強い上司に多く見受けることができます。相手が悪いことをしたと意識するように、過剰なまでに迷惑をかけたかのように追求されます。みじめな思いにさせられますが、そのみじめさこそ攻撃している自分自身の罪意識なのです。

劣等感が潜んでいる嫉妬心からも同じことが起こります。ある女性店長は、自分に関心を示さず部下(女性)に恋愛感情を持っている男性客と部下に嫉妬心を持っていました。職場ですので公私の区別をつけるべきですが、部下に好意を寄せている男性客が贈り物をしたのを見つけると烈火のごとく男性客に詰め寄り、行為をなじりました。その一連の動きにただならぬ気配に男性客も部下も異様さを感じました。

一般常識があり、お店の女性への気配りから、言われるままにしていましたが、公私の逸脱があったとは言うものの、それほど問題ある行動をしたと思えない男性は、みじめな気持ちにさせられることに不思議な気持ちになっていました。女性店長は若くてスタイルもよく美人の部下に嫉妬し、男性客に憎悪の感情を持っていたのです。自分の劣等感を男性客に投影していたのです。その投影は日頃から能力が高くもないのにキャリアウーマン気取りで派手な毎日を過ごすツケとしての業績の低迷と管理不足の罪の意識から生じた責任転嫁と自己弁護を目的にしていたのです。

責任転嫁はただ責任を他者に転嫁するだけでなく、隠したい感情も他者のものにするトリックが潜んでいるので、こじれたときには、なにが起こっているのか不透明な分だけ不愉快な感情が残りやすいのです。

2011年3月16日水曜日

【トリッキーな交流】弱みの正当化

 ことさら自分の弱みを強調して行動を変えない、行動しない人がいます。自分では努力していて、これ以上は自分にはムリだと、行動することを拒否するのです。

これが「弱みの正当化」というトリッキーな交流のひとつです。いくら励まし、応援しても、一向に改善の兆しはみえない。いい加減にしろと見放しそうにすると、少しばかりは挑戦の気配を見せるが、すぐにまた元通りになります。

「私はやりたいのです。このままではイヤです。でもどうしていいのか分からないのです。こんな私にそんなことができそうにありません。親の育て方が間違っていたのです。それなのに、私にはムリです。」ざっとこんな感じです。

自分の人生の先は見えていると感じていて、失敗を避けようとします。無気力で挑戦しようとしません。挑戦したら傷つくだけだと考えているのです。「私はやりたいのです。」といっても、願望はあったにしても挑戦して傷つく前にあきらめているのです。

これもアンビバレンスに陥った状態ですが、ネガティブ面に支配されているのです。
そして「弱みの正当化」をしていると、誰かが助けてくれる、我慢してくれると思い込んでいるのです。そのようにラケットを使って支配しょうとしているのです。

 カモになるのは、自分を受け入れてくれる人です。最初は、困った状態を打破したいと訴えます。同情と励ましをとり続けている間は、問題なく交流は展開されますが、やがて問題を克服する方法と意欲が話題に上るようになりだすと、関係に暗雲が漂い始めます。そして一向に行動しない、行動に変化が起こらない、それも客観的に観て簡単なことなのです。それが一向に進まず「弱みの正当化」が激しさを増します。

救済者側がイライラし、援助を投げ出すようになると、ますます悪くなるだけだと訴えます。しかし行動に何の変化もないので、中止せざるを得ません。
関係はこじれ、挫折感で結末を迎えます。

「やってもできないじゃないか」と救済者のせいにします。責任転嫁の裏で自他否定します。これが交流の目的だったのです。


2011年3月15日火曜日

【トリッキーな交流】泥棒に追い銭

 「泥棒に追い銭」というトリッキーな交流は、お金に関する被害を何度も被りながら、また頼まれるとお金を与えてしまうという不思議な交流をしてしまうものです。

過去に何度も被害にあっていたら、普通は「いままでも返したためしがない。もう貸せない」というように拒否するものですが、言われるままに貸してしまう(与えてしまう)のです。そして結末は、損をして自己嫌悪に陥るというもの。

本人も「どうせ返ってこないだろう」と感じていながら、貸してしまうのですから、これは貸すというより与えている状態です。そのくせ最後には「またやられた!」と後悔と自己嫌悪に陥っているわけですから、ただごとではありません。

このように、尋常ではない、不思議なことが、トリッキーな交流に観られる共通した特徴です。最後には「どうして私はいつもこうなのだろう」と思うようになる点が単なる偶然ではないことを証明しています。相手が変わっても、始まりが多少違っても、結末は同じなのです。

 なぜ結末が同じなのでしょう?結末が目的なのです。脚本という言葉で思い出すのが映画、お芝居、ドラマですが、脚本家は用意した結末に向かって書いていきます。
結末のないドラマはありません。運命脚本も同じで、結末(目的)に向かって書いています。書いたのは自分ですが、その自覚も認識もありません。一般に人は未来のことが不安になります。

恐怖よりも、不安の方が堪えます。だから友人に相談するのをはじめ、占い師さんに診てもらう人もいます。明日のことは分からないのに、実は自分が明日の物語をすでに書いているなんで、それはもう、びっくり仰天なことをしているのです。

 「泥棒に追い銭」をしてしまう人は、無心してくる人を重宝しているのです。最後に被害にあっていますが、そのプロセスでは、「頼りにされるのがうれしい」というように、それがネガティブな交流であっても気持ちのいい思いをしているのです。
つまり「共依存」が起こっているのです。その背景には「自己否定感」があることは言うまでもありません。

一般に自他尊重の構えで生きている人は、友人も大切で、助けを求めることは出来るけれど、迷惑をかけるわけにもいかない、結局は自分だけが頼りだと自己責任を引き受けて生きていこうとします。ですから依存と助けを求めることは明らかに違うことを心身で知っています。

無心してくる人は助けを求めているのではなく、依存なのですが、自分も依存心をもっているのでその分別がつかないのです。「温かい交流ができるなら、(どんどん無心してくれ、自分は無心がうれしいのだよ)」という無意識のイメージがあるのです。

この内意識できているのは「温かい交流」だけです。客観的に観ると、本人にしたら「温かい交流」をお金で買っているようなものですが、最後に裏切られて、手にすることができないので、「また、やられた」と思うのです。

お金がなかったために、親に甘えることができなかった、苦労している親を助けてはりたかったというような過去を持っていて、その感情が未処理であった場合に、小さくても通い合っている交流を失いたくない、温かい交流を取り交わしたいと思いが潜んでいるのです。その無意識のイメージが、無心する人を好んで近づけているのです。

このような人は、温かい交流に意識が飛んでしまって、自分と他者の境界が混乱しているので、アンビバレンスな状態になります。貸しても貸さなくても、不快な気分になります。貸して怒り、貸さなくて最悪感というアンビバレンスになってしまうのです。そうしている内に、きっと気がついて温かい交流をしてくれるだろうというラケットに支配されてしまうのです。

どちらにしても、後悔しないではいられないのです。与えるしかないので、懲りずにやめられないのです。

この状態を克服するには、断った後に味わう罪悪感を処理することです。ラケットに支配されない自分を作るのです。アンビバレンスな状態を避けるには、自分はそこまで相手の責任を負う必要はないのだとライフスキルの重要なスキルである自己認識スキルを育てる必要があります。

 トリッキーでドラマティックな交流をやめるには、元(自己否定、または他者否定)から断ち切るのがベストです。しかし、それが出来ない場合には、アンビバレンスな状態になったときに、ポジティブ面を選ぶことです。

 たとえばお金を貸す、貸さないの場合なら、解釈の違いで、貸したくないがポジティブであると思えるし、ネガティブに思える場合があります。大事なことは、したい欲求の高い方がポジティブであるということです。
分らない場合は、潔く自ら自主的に与えるという選択もあります。相手が無心したから貸したというのではなく、自ら進んで与えるのです。相手の喜びを自分の喜びにするのです。

そうするとどちらを選択しても不愉快という状態は克服できるので、ラケットに拘束されることはなくなり、自己否定、または他者否定を確認することもなくなります。


 「泥棒に追い銭」ではありませんが、同じような気持ちから起こっている「代理満足」が原因の不幸についても紹介しておきます。

自分がこどもとき、若いときに思うように欲しいものを手にできなかった女性が、自分の娘には、なんでも望むままに買い与えてやる母親になることがあります。

娘と自分の境界を越えて共依存の関係に陥り、娘を自分の代理にして「代理満足」で、かっての願望を果たそうとするのです。美談っぽく見えたりもしますが、これは大変危険な暮らし方です。娘は勝手気ままに暮らせますが、真剣に働くこともせず、結婚もできず、人間として能力を使わないまま年をとっていくことになります。

母親がいなくなったらどうなるのでしょう?なにも出来ないおばさんが出来上がるだけです。

2011年3月14日月曜日

【トリッキーな交流】不幸な私

 トリッキーな交流のひとつ「不幸な私」は、自分は不幸だと周囲の人にノンアサーティブに訴えるやり方で、相手に重苦しい印象を与えるのが特徴です。そこには他者からの同情や注目を集めたいという意図が働いています。

「不幸な私」をやる人を見極めるのは簡単なのですが、自己中心の人、他者に関心のない人には見抜けないことが多いようです。

生い立ち、境遇、パートナーの犠牲者であるといった自己憐憫のメッセージが多く、状況にふさわしくない時に表現されたりします。

・小学校の修学旅行に、私だけ行けなかったのです。
・私は美人ではないし、頭も悪いし、なにひとつ取柄があるわけではないし。
・家が貧乏だったのでね。大学さえ出ていたらね。

と、いったものがぞの一例です。このようなネガティブなコミュニケーションの裏には、自分をそのまま受け入れて欲しいという願望があります。

 問題はこの先で起こります。温かい人が、受け入れても、今度はそれを拒絶するのです。

「不幸な私」の裏には強固な壁があり、誠意のある好意であっても跳ねつけます。
「同情なんかして欲しくありません」「どうせ下心があるのでしょう」と相手を傷つるようなことを平気でします。
自己嫌悪と虚勢というアンビバレンスが同居しているので、好意には虚勢で、嫌悪には自己憐憫で反応するのです。
その奥には、人間関係の基本的な構えでいう自己否定と他者否定が潜んでいます。

 結局、本当に誠実な人でも最後には拒絶するようになりますので、「誰も自分のことを分かってくれない」「ひどいことを言う」と攻撃的になります。救済者が迫害者に変わってしまうのです。少し考えたら分かるはずの「因果関係」を考える力に明らかな不足があるのです。真摯に関わった相手は、自己嫌悪、自己卑下に陥ることになりますが、その感情こそ当人が抱えている感情そのものなのです。

結局、当人は孤立せざるを得ません。自己嫌悪、自己卑下に陥ることになり、自己否定と他者否定を強化することになります。この結末こそ「交流」の目的なのです。

しかし、どうしてこのような結末を無意識に目的にしているのでしょうか?これがラケットに拘束された状態なのです。

つまり、このような状態に置くことが愛情獲得の手段なのです。しかもこれで安心ということがなく際限がないのです。

しかし、このやり方はものすごく危険です。

 このような手段に応え続ける人とはどんな人なのでしょう。誠実に接しても傷つけられるばかりなので、ストレスに耐えられず離れるしかなくなります。

対応できる相手とは、与えるより、奪う目的しかない相手だけなのです。それでも愛情獲得しか眼中にないので、獲得のためなら搾取されても気にならないのです。結局、「本当に不幸な私」になってしまうのですが、心理的に「不幸な私」が慢性化しているので、違和感なく「本当に不幸な私」になってしまうのです。

 このような人は、想像以上に扱い方に注意が必要です。本人も周囲の人も、カウンセラーも「自己分析」を避けるのが賢明です。分析するほど自己嫌悪が進み、ますます「不幸な私」が強化されてしまうからです。努力するほど悪くなる悪循環に入り込んでしまいます。

最善の方法は不幸があっても乗り越えてきたポジティブな人に接する機会を多く持つこと、考えるのではなく行動することです。

幼少の頃の環境は自分のせいではないのです。不公平ではあるけれど、そこから学ぶことがあるなら、不公平とは言えないのです。愛情とは、励ますことであり、相手のために時間を使うことです。ポジティブな行為にしか愛情獲得の方法はありません。ラケットというネガティブな行為は自分だけでなく相手を傷つけ愛情を遠ざけてしまうのです。

2011年3月11日金曜日

【トリッキーな交流】私を捕まえて

「キャッチ・ミー」とも呼ばれる「私を捕まえて」は、捕まった後に、なんで捕まったり、ばれたりするようなことをするのだろうか?と自分でも不思議に思えるネガティブな交流です。
「私を捕まえて」のもっとも身近な事例はなんどもスピード違反を繰り返す人に見受けられます。

本人は急いでいるからスピードを出しただけと、一応合理的なことを言いますが、急いでいてもスピード違反しない人がたくさんいます。口実の裏には隠れた目的が潜んでいるのです。

企業倒産に大きな影響がある企業内犯罪。私はビジネス・コンサルティングの立場で過去に数多くの企業内犯罪を発見~解決してきました。電話相談だけでも、会ったことのない人を特定し、その後の調査や現場取り押さえで確定してきました。

なぜ、そういうことが可能なのかというと、必ず証拠を残しているか、またはサインを本人が出しているからです。

先に説明した三角形で、救援者(あるいは支持者)の役割を演じる者が、なぜこんな問題が生じているかを正しく見抜いて、その心を見てあげる気持ちがあればモチベーションもあがるのですが、そこまで配慮することなく、自分のイメージで判断して終わりにしている方が多いのは残念です。つまりそういう人がマネジャーをしていると、トラブルも企業内犯罪も後を絶たないからです。大事なことは発見することではなく、未然に防ぐことなのです。

「私を捕まえて」という交流をする人には、捕まって自己否定を再確認することにあります。ですから問題を起こした後に、手がかりとなるメッセージを必ず出してきます。それをキャッチするか、できないかの違いは、人間の心を見続けているこちらの心のありようが重要なのです。

人の心は弱いものです。特に不安に弱い。不安になると日頃しないことでもやってしまう。「私を捕まえてくれ」を演じる人は、規則違反、嘘、盗みなどで仕掛けてきます。
ドラマにつきあわされるカモにされる人は、目上の人、保護者、警官など、自分をケアする立場にある人が選ばれます。
発覚するまでの間はこじれることなく良好な関係を維持しますが、問題が起こると関係はこじれます。つまり「3つの心とコミュニケーションの違い」で紹介したようにコミュニケーションが交叉する状態になります。

「私を捕まえて」を成人した人がやる場合、自己処罰が目的になっていることが多いのです。発覚したとき、自分と相手、周囲の人との間で混乱が生じます。「どうして、捕まるようなことをしてしまったのか」・・・・自分でも判らず後悔します。

無念さと安堵感、くやしいけれどホッとするというの真逆のアンビバレンスな意識が鮮明になります。この結末こそ、発端となる理由そのもの、つまり目的なのです。心の内側には変わりたい欲求と変われないあきらめが同居しています。結局、自分にはできないという無力感に甘んじることになります。自分は変われない、自分にはできないというネガティブな自己否定感に留まる。あるいは、さらに自分を処罰する欲求には一層強い自己否定感が働いています。

自己処罰の欲求の背景には、人生早期に身についてしまった「自分はダメな子」、「自分は悪い子」といった思い込みがあります。それらは過去の経験に裏づけされています。

「私を捕まえて」は、こどもや若者にも多いトリッキーな交流です。こどもの場合には「自立」がうまくいかない葛藤が原因になっていることが多いのです。

人は成長と共に自分の価値観、信念など自分の内側の力によって生きていくことになります。秘密を持つことも、とても大事なことで、自立と深く結びついています。自立は個人の主張のひとつなのです。しかし親との結びつきが深かすぎたり、親がこどもの自立に伴う葛藤への関心が弱いとこどもは秘密を持てない状態のまま成長が停滞します。身動きできない状態で内側の力を発揮できないでいると、このような行動に走ることがあります。

アンビバレンスな状態にあって選択するときに、ネガティブな交流を選択してしまう習慣は、自分を積極的に主張できないノン・アサーティブ、またはアグレッシブな自分を作る原因になります。それは夢の実現から遠ざけることでしかありません。
ネガティブな交流は絶対にしないという自分との約束を交わし、その励行に努めるようにしたいものです。


▼お問い合わせはコチラから

2011年3月10日木曜日

【トリッキーな交流】ひどいもんだ!

 「ひどいもんだ!」というトリッキーな交流は、「不幸な私」によく似ています。
不幸な私がノンアサーティブな態度をとるのに対して、「ひどいもんだ!」はアグレッシブ(攻撃的)です。

自分を犠牲者、他者を加害者に限定して騒ぎ立てます。同情を買おうとコントロールします。その背景には自己否定感からはじまる不安があり、不安に勝つための支配欲が日常的に大変強い傾向があります。

しかし、人は一般に支配されたくないものです。不安の末にコントロールされることは、他人のゴミを引き受けるようなものなので、健全な心の持ち主であればあるほど離れていきます。あるいは大らかな同情心の強い人ならゴミを引き受けてくれるでしょうが、それも度が過ぎると去っていきます。

結局、依存心の強い人が共依存の状態で関係を続けていくだけなので、家族でも持つと健全な家族関係が作れず、やがて崩壊するか、誰が犠牲になる形で深刻な問題を抱えることになります。
 「ひどいもんだ!」を演じる人は、その根っこに自己処罰の欲求を抱えています。
その交流は他罰の形で始まりますが、最後には「嘘つき」「ずるい奴」と周囲の人から見放され信用失うからです。

自己処罰が目的になっている原因には、自分はダメな人間だという思いが強く、その原因が親子関係にあり、「いい子」に潜んでいるように、親の方が子離れ出来ずに強い密着が長く続いている場合も少なくないのです。秘密が持てず、自立が思うように進まない挫折感があるかも知れません。「大人になってはいけない」禁止令を受けている可能性も否定できません。

大人になってはいけないこども、こども代わりに出て行く親、そして加害者にされたが演じる三角形の交流。こどものケンカに親が出て行かないのが健全な子育ての鉄則ですが、こどものトラブルが、そのまま親のトラブルに発展するようだと「ひどいもんだ!」というトリッキーな交流に発展します。

つまり、こどもと親の双方に問題があるのですが、こどもの能力を値引きしている、あるいは親の自己顕示欲が強いと、勝手にこどもの問題に首を突っ込み、自立の機会を奪いとってしまうのです。
本来は家庭内の関係ですが、擬似親子のような三角形のトリッキーな交流をやってしまうことで、同じような関係をビジネスの現場にも作ってしまう行動パターンが癖のように出てしまうのです。自己処罰を望むラケットが働いているからです。

対策は「ひどいもんだ!」と他者のせいにして周囲の人を巻き込むのではなく、自分で責任を引き受けて解決する能力を高めていくことです。つまり自立できるように力をつけていくのです。また、「ひどいもんだ!」 と攻撃する前によい面を探す努力も必要です。

2011年3月8日火曜日

【トリッキーな交流】私を嫌って(私を見捨てて)

何度もミスを繰り返し、腹にすえかねた相手が最後に爆発して怒りをぶちまけて結末を迎える「私を嫌って」は何度も繰り返すトリッキーな交流の見本のような交流パターンです。

いくら誠意を尽くしてサポートをしても、実行しない。何度注意しても変えようとしない。粘り強い人でも愛想がつきてしまい見放す結果になります。

本人は「どうしてこんな結末になるのだろう」と首をかしげますが、同時に安堵します。安堵するのは目的が達成されたからですが、それも一時的でやがて孤立感が高まります。そこにアンビバレンスな思いを見ることができます。

 「私を嫌って」は、腹立たしく見える行為ですが、客観的に見ると故意に嫌われるように仕向けているように思えます。その不自然さに隠された目的が見え隠れしています。自己処罰的に自分は嫌われるようなことをしますが、自分はダメな人間だという思いが未処理のままになっているからです。

しかし本当に「自分はダメな人間だ」と考えているのでしょうか?意識の上では決してそうではありませんが、根底には拭えない自己否定感がはびこっているのです。その葛藤を、もっとも安易な形で結論づける方法が、トリッキーな交流パターンです。

 ではどのようにすればいいのでしょうか?克服の努力です。問題は「自分はダメな人間だ」が先回りして障壁になるため、負の循環から抜け出せないのです。行動の乏しさがその証拠です。することがたくさんあるのに、それに手をつけず、自分はダメだと結論を出す。つまり戦う前にタオルを投げて敗北宣言するボクサーのようなものです。そんなボクサーはいませんが、それをやってのけるためにトリッキーな交流で他者を利用しているのです。つまり怒りを爆発させている相手はカモにされているのです。

自分で自分を敗者にしているのですが、自分では結論を出せないので、他者を利用しているのです。他者は嫌な思いをしますが、そこに自己否定だけでなく、他者否定の思いが隠されていることを発見できます。しかも他者から否定されたことにしているので、反省にならないので、繰り返し拒絶される行為を続けます。

2011年3月7日月曜日

運命脚本

アンビバレンス(アンビバレンツ)、境界、禁止令、ラケット、万能感、コントロール・・・人生の大きな影響を与えている要素について説明してきました。これらはバラバラではなく、因果関係があり、それがひとつにまとまると、「運命脚本」と呼ばれる自分だけの人生の物語になります。

運命脚本とは、心理学でいう交流分析、ドラマティックな結末が用意されたゲーム的なトリッキーなコミュニケーションで綴られる生き方のことです。
繰り返し起こるイヤな出来事と構造化されている当事者個人特有のパターンです。

「運命脚本」は自分がそう呼んでいるだけで、公式な呼び名ではありません。人が自分時分自身で無意識に書いた脚本であり、意識して変えない限り、抗えないものだからです。

交流分析はTA(Transactional Analysis )と呼ばれ、957年にアメリカの精神科医エリック・バーンが創案し実用化した心理療法のための心理学です。日本では1970年代に、日本で初めて心療内科を確立した池見酉次郎医学博士によって、臨床現場に取り入れられました。最初は診療内科のための理論として普及しました。さらに診断ツールとして「エゴグラム診断」が日本独自に発達しました。

運命脚本には、映画やドラマの脚本と同じ構造をしています。はじまり(仕掛け)があり、プロセスがあり、結末があります。無意識の目的に支配される構造化した行動パターンと解釈できます。今度こそはと思っても、なぜか、何度も繰り返し同じようなプロセスを辿り、同じような結果になるという場合には、運命脚本に支配されていると疑って間違いありません。

運命脚本を完成させるために、先に紹介したアンビバレンス(アンビバレンツ)、境界、禁止令、ラケット、万能感、コントロールがそれぞれの役割を果たそうとするのです。それらは強力な働きをチームワークで機能し、自分の意志とは関係なく脚本を実行していきます。

運命脚本には、ドラマチックにするための舞台装置が必要です。
その点ではひとりで演じる「落語」ともよく似ています。落語は主人公だけでは語ることはできません。必ず主人公以外の人が登場します。

必ず主人公と相手役がいて、はじまり(仕掛け)、プロセス(交流)があり、結末があるのです。しかもドラマティクであるためには、相手役はカモになる人であり、プロセス(交流)には問題のない交流の時期とこじれる時期があります。

では、なぜドラマチックにする必要があるのでしょうか?
トリッキーな仕掛けをするから平穏には終わらないのです。目的は結末と同じですが、仕掛ける目的が自分または他者を否定することにあるからです。

なぜ否定する必要があるのでしょうか?
否定することが目的だからです。否定が目的になる理由は、未解決の問題に対する適切な回答がないために、根拠もないまま回答が決まっていて、その回答を確認することが目的になっているからです。

つまり、ずっと自分はダメな人間だと思い込んでいたとします。確信を得られないままでいると、確認するために想い(感情)を行動化します。そして行動の結末によって確信できるような回答を認識します。

「やっぱり自分はダメな人間だ。」

それを何度も繰り返すことで、確信を深めます。試し行為もそのひとつです。試す目的は、「大丈夫」を確認することより、「やっぱりダメだ」を確認することに重点が置かれているのです。否定が目的なので、否定されるまでやり続けるのです。

・一般には考えられないような劣った行動で他者から笑いを誘う
・金銭面で損ばかりしている
・不正を行い、罰を受ける立場になる
・不幸を訴えて、自己憐憫にふける
・自分のスキルが劣っていることを表に出して責任から逃げる
・罰を引き受けるスキルがないことを示唆して罰から逃れる
・自分の心や身体を自虐的に痛めつける
・相手に拒絶されるような行為を繰り返し嫌われるようにする

これらは偶然ではなく、自己否定、他者否定という目的が達成されるまで行われたトリッキーな交流の結末なのです。

自己実現のための目標を達成するまでやり続けるのと同じです。

自分に肯定的である場合には、やりたいことに熱中するだけのことなので、「こと」への集中が中心です。集中するために自分のコンディションをベストにすると言う意味で自分に関心を持ちますが、それだけのことです。ですから運命脚本は不要です。結果的に「自分はやれる」という自己効力感がごほうびのようについてきます。ごほうびに何かを買わなくても、お金では買えない「自己効力感」という最高のごほうびを手にすることができるのです。

どちらにしても、やり続けるなら、肯定的になれるまでやり続ける方が建設的です。
では、どうすればポジティブでハッピーな道のりへ転換できるのでしょうか?

まず、自分がどちらの道を歩んでいるのか、認識しましょう。
そうは言うものの自分が無意識に描いた運命脚本を知ることは困難です。自分に未処理の問題があることさえ分りません。

運命脚本は生涯を費やす壮大なドラマであり、クライマックスを迎える段階で、自分が何を目的にして暮らしてきたのか明らかになります。しかし、それでは手遅れです。ただし「手がかり」を得る方法があります。
同じようなことを何度も繰り返しているので、小さなドラマの結末を観察することで、自分がどのような結末に向かっているのか想像がつくからです。

結末だけではありません。先にお話したアンビバレンス(アンビバレンツ)、境界、禁止令、ラケット、万能感、コントロールが運命脚本を完成させるために道具のような役目をしているので、日常の態度からどのような要因が、自分にどのような影響を与え、どのような脚本を描いているのかを知ることもできます。因果関係が働いているので、要因のどこから入っても同じところにたどり着けます。

いくつかの要因のひとつである「禁止令」は運命脚本を描く中心的な役割をしていますので、禁止令から手がかりをつかむ方法もあります。

たとえば女の子が欲しかった親が、男児に向かって「女の子だったらねえ」というようなメッセージを多発すると、こどもは「男であってはいけない」という禁止令のもとで、性の混乱が起こることも少なくありません。

あるいは、離婚など離別は親の問題ですが、こども特有の万能感が災いして離別は自分の責任と受け取るこどもは少なくありません。取り返しのつかない失敗を悔やみ、深い悲しみを避けるために「異性と仲良くしてはいけない」というネガティブで強い「禁止令」が効いてしまうこともあり、成人しても異性とのトラブルが絶えない人生を過ごすようになったりします。また母親が別れた主人の愚痴をこぼすことで、より強化されます。

運命脚本では目的が結末になります。どれも自己否定感が基本になっているので、自分に否定的な結末を迎えますが、それによって安堵する点が特長的です。それは居心地のいいふるさとに帰るようなものですが、希求していたことが叶わないままです。まさしくアンビバレンスな自分のまま終わるという残念な結果になります。幼い頃に父親と離別した子は、その原因が自分にあると思い込んだまま、生涯を父親(のような人)探しというゲームに明け暮れて遂に会えないまま終えるという人生を過ごします。

なぜ遂に会えないまま終えるのでしょうか?
自分でその機会をことごとく破壊するのです。父親のような人を求めて、愛します。愛されるように行動し、愛されると、今度は禁止令に拘束されて、自ら離別に持ち込むのです。その結末に安堵すると同時に自分はダメな人間だと自分を否定するのです。それは遠い昔に味わった体験の再現です。そして繰り返し未処理の感情を味わうのです。まるでリメイクの映画を観ているような人生です。永い人生を生涯グルグルと同じ場所を回り続けて終えるのです。

この膨大なムダに訣別するために、どのような>運命脚本があるのか、参考までに見てみましょう。

2011年3月3日木曜日

コントロール

 コントロールの解釈は人によってさまざまです。ビジネスの世界で言うコントロールは、主に「マネジメント&コントロール」のコントロールですが、マネジメントの解釈が正しくない場合が多いので、コントロールになるとさらに混乱しています。ここでいうコントロールとは「支配」と考えるのが妥当です。

 さて、これまでお話してきたように、アンビバレンス(アンビバレンツ)、境界、禁止令、ラケット、万能感の背景にある本来の目的は、どうしても自信が持てない自分が責任から逃れて願望を実現しょうとするからです。隠した願望は相手に投影されます。自分は望んでいないが相手は望んでいるというようにすり替えれば自分の責任ではないと思えるのです。そのためにはコントロールが必要になります。

コントロールが必要な理由は、アンビバレンスの拘束を受けていることと、「不安」の強さにあり、それらの背景には自己否定感があります。アンビバレンスの拘束と自己否定感があって、コントロール(支配)をすると、それを知られたくないと思うのが人情でしょう。知られたらどうなるでしょう?

彼らにとって、バカにされる、見下されるのは、ただのミスとは考えられず、致命傷な見捨てられ感につながっています。だから謝ることが苦手です。謝ることは致命的な恥を晒すようなもので、「見捨ててください」というようなものだからです。だから自分の非を認めようとしません。頑固になります。

さらに言うと、そんなことにならないように親密になることを敬遠します。親密になることは自分をさらけ出すことであり、それは恐怖そのものなのです。社交的に見える場合も、重要な人、心を開きたい人には自分のことを話しません。心理的に距離のある人には親密であっても差しさわりがありません。

その結果、心は孤独です。それを知られたくないので、なにごともうまくいっているような態度をとります。助けを求められない状況に自分を追い込むことに他ならないで、孤独を越えて、孤立がますます深まります。

すべてが逆、逆に進んでいきます。コントロールを手放したいと思っている人は少なくありません。しかし負の連鎖は循環するので、連鎖を断ち切る機会を持てないまま、追い込んだ結果の深刻さが年齢と共に深まります。

 特に女性の場合、自立できる経済力がない場合、厳しい局面を迎えることも少なくありません。早期の改善が望まれますが、難しくしているのが運命脚本です。

2011年3月2日水曜日

万能感

 万能感は、幼いこどもが持ってしまう幻想です。こどもは泣いたり叫んだり、ラケットを使ったりして、親、保護者をコントロールしようとします。そうしている内に、自分の願うことはなんでも叶うという思い込みをしてしまいます。まさに万能の神になってしまうのです。

 こどもたちは、成長に伴い現実を知るようになっていくのが健全な状態です。親が甘やかして育てていると万能感を捨てきれないまま成人することも珍しくありません。不幸はそこで起こります。こどもは万能感に仕返しされるかのように苦しむことになりますが、その苦しみがどこから来ているのか、分からないまま悶々とすることになります。

 こどもたちは、こどもの時代にあっても、万能感の仕返しに苦しみます。その典型的なパターンで残酷な仕打ちが親の離婚、親との離別です。自分の願いは叶うという思い込みは、離婚した場合に自分が原因で離婚したと思い込んでしまうのです。自分がいい子でなかったから片親が去ったと考えてしまうのです。こどもには深い痛手になります。万能感が強いほど、つまり甘やかされ、大事にされた子ほど、なにごとにも自分に原因があると考えてしまうのです。これが自己否定感となって浸透してしまいます。

このパターンは成人しても続き、自分が関係しないことであっても「自分のせいで・・・・」という思いに苛まれます。この意識は、他者と親密になることへの恐れに発展します。なにも言わなければ、感情を出さずにいたら、失敗しないと考えてしまうのです。表向きは問題なく繕うことに長けていきますが、内心では不安が離れないというストレスの多い生活が日常化します。

 万能感はラケットとも結びついているので、特に親しい関係の人との間で問題が起こります。心理的に距離のある人との間では、ラケットを使わないからです。自分が不幸であれば他者はなんとかするという、他者をコントロールする発想に 裏返ってしまうことにもなります。その企みはほとんど失敗します。

 万能感は「努力すれば、なんでも実現できる」というポジティブなものではありません。根拠のない自信過剰と、しかし実際にはなにもうまくいかないという自己否定感が、ひとつに強く結びついたネガティブで、何事にも不安になるアンビバレンスな感情です。

こどもの頃、泣いたら思い通りになったというようなことは、大人の世界では起こりません。それを認めてくれるとしたら、恋愛感情を持った異性だけです。だから恋愛は心地いいのです。だから依存症になる人もいます。しかし、それも熱をあげているときだけで長続きしません。継続を要求すると関係はこじれだします。自己否定感が強いと、自分が否定されることを目的に破綻を求めてトリッキーな交流をする場合もあります。

 「率直、誠実、対等、自己責任」つまり健全で正当な自己主張が出来る人であるためには、あり得ない「万能感」を排除することが重要です。

 自分は普通の人間であり、神ではないと再認識しましょう。こういうと、そんなこと分かっていると思う人が大半でしょう。でも本当にそうでしょうか?

では、率直、誠実、対等、自己責任を実行できているでしょうか、どのような場面でもアサーティブでいることができるでしょうか?

神だと思っていないという意味は、「驕っていない」ということではないのです。自己否定、他者否定しないという意味なのです。裏返すと完璧な人などいないという意味になります。自己否定、他者否定しているので、遠い昔にすでに効力を失っている万能感に頼り、コントロール、支配しようとするのです。つまり支配とは自己否定感の強い人、自己効力感の乏しい人の戦術なのです。

 なぜ、自己否定感が強く、自己効力感が乏しいのでしょうか。完璧でないと否定されると思い込んでいるからです。自分が否定され見捨てられる恐怖、自分がひとりで生きていけないという不安を消し去るために、完璧であることを自分に求めるのです。

しかしどんなに努力しても完璧になることはありません。そこで他者否定をすることで、自己否定感を和らげようとします。

そして同時に安心を強く求めすぎ、イエスか、ノーか、白か黒か、右か左かという極端な選択肢を持ちます。これも現実的ではありません。

ほとんどの場合、イエスでもノーでもない、白でも黒でもない、右でも左でもないのです。だからどちらかにじわじわと寄せる努力、交渉が日常的になります。交渉では良い人間関係が基本になるので、良い人間関係を作る努力と、作れる自分をめざすのです。

 ところが幼い時から正当に主張しないで、支配によって願望を叶える体験を繰り返していると、必要な人、安心できない人には媚びへつらうことで支配する、そうでない人には見下すことで支配する、イエスかノーか、白か黒か、右か左かの発想による、どちらも他者を支配することに変わりのない仕組みを自分の内部に作ってしまいます。

責任を負わないやり方を基準にするからです。責任をとることを嫌います。なぜなら責任をとることは、「おまえのせいだ!」と直結していて、見捨てられる恐怖そのものだからです。率直、誠実、対等に不安を覚えて、なかなかそうしないのも見捨てられる恐怖からです。「遠まわし、正直でない、見下すかあるいは自己卑下、責任を負わない」ようにしていたら、責任は相手の主体性のなかにあると思う、思わせることができるからです。

 万能感から脱出するには、責任を負うことを決意することです。ラケットを使わない。イエスかノーか、白か黒かを捨てる。結果が先にあるのではなく、希望するどちらかに一歩、一歩、前進と後退を繰り返しながら、じわじわと寄せる努力を好むことです。
すぐにハッピーになることを好まないようにして、努力の賜物と思えるようなプロセスに愛情を注げるようにすることです。

 失敗を恐れないことです。それにはプロセスを愛する力が貢献します。 結果よりもプロセス。 失敗する可能性を認識した上で、失敗しないように努力する。結果が約束されていないことに向かうプロセスを好むようにすることです。成功したか、失敗したかが重要でなく、成功に向かって可能な限りの努力をするプロセスに本当に自分がいることを大切にすることです。

 責任を負うことを決意する。じわじわと寄せる努力を好む。プロセスを愛する。失敗を恐れない。それらの鍵が率直、誠実、対等、そして自己責任の実行です。

率直、誠実、対等であることは自己責任への道なのです。

ラケット

ラケットはマイナスのストローク(交流)のことです。親しみのあるコミュニケーションをすればいいときに、ふさわしくないネガティブな感情を出してきます。その背景には相手を支配したい願望が潜んでいます。本人(大人)には習慣化した交流パターンで、そのようにしかできない苦悩があります。

ラケットは精神世界を破壊するギャングのようなもので、相手を支配する目的で使いますが、それが同時に自分を縛りつけてしまいます。 小さなことでも積み重なると人生を狂わせてしまいます。貯金によく似ています。コツコツ貯めてまとまった金額になったときに引き出します。この場合はコツコツと不愉快な感情を貯めて、ある日不幸を引き出すのです。

嘘もその範囲に入ります。嘘はネガティブなものですが、目的に違いがあります。

相手をだまして利益を得るもの、
自分を守るためにつくもの
相手を守るためにつくもの
気を引くためのもの

 相手を困らせることで気を引こうとする人がいます。 女性に多い現象です。しかし、いくら気を引いても、気を引くことは目的ではなく手段でしかないので、願望が達成されるわけではありません。

では、何度失敗しても、懲りずに繰り返す、人間関係をこじらせるだけでなく、自己実現の妨害をしている悪循環の背景にある手法「ラケット」について説明しましょう。

 ラケットとは、不愉快な感情を使って、相手を思い通りにコントロール(支配)する手法です。たとえば悲しそうな表情をする、寂しそうな態度をとるなどがそうですが、役者さんが役を演じるときに、気持ちを同じように調整して演じるのに似ています。

「ラケット」を多用するのは幼児期です。まずこどもというものが親、保護者が思う以上に彼らは不安を抱いている点を理解しておきましょう。

幼児は無力な存在で、親、保護者の愛情と保護なしには生きていけません。これは成人がこどもと同じように理解できない心境です。切羽詰まった状況に置かれた幼児が、愛情と保護を得るために、愛想笑いをするという驚くべき事実に注目しておきましょう。

 交渉する力を持たない無力な幼児たちが自分の欲求を満たす手段として使うのが「ラケット」という手法です。「もしボクが悲しそうにしていると保護する立場にある人は、考えを改めてボクの願いを受け入れてくれるかも知れない」と考えるのです。

親たちは、「もう、仕方がないね」という思いから、イライラしながらも、代わりにやってやるなど、幼児の欲求に応えます。この瞬間、不快な表情や態度は魔法のおまじないのような役割を果たすのです。「しめしめ、この手法は効果的だ!楽しくはないが、このやり方は使えるぞ!」と思うようになります。

しかし、ここでは率直でないことに注目しておくことが重要です。こどもは自主的つまり自分の責任でなにかを要求したのではなく、親・保護者が”察して”親・保護者が自主的にこどもの要求を満たそうとするのです。おもちゃを買うにしても、こどもが自主的に求めたわけではなく、大人が自主的に買ってこどもに与えることになるのです。

 つまり、こどもには交渉の手間が省かれるのです。自分が不機嫌な表情をしていたら、親・保護者が気をきかせて買ってくれるのです。まさしく万能の神というわけです。自分はなんでも支配(コントロール)できると思い込んでしまいます。

幼児はこれが武器になることを体験で学び、困らせることで、願望は実現されることを憶えます。これほど便利な「弱者の戦法」を以後手放そうとしなくなるのは当然だといえます。

 さて、厄介なのは、この手法を成人への過渡期、さらに成人して社会人になっても使ってしまうことです。困らせることは、自分にとって大切な人の気を引き、支配する手段になると思い込んでいるのです。つまり甘えているのですが、大人の社会では通用しないので、問題が起こってきます。

そうはいっても、この段階まで、率直、誠実、対等、自己責任で交渉する、人間関係を持つことを体験していないので、どのようにしていいのか分からないまま大人社会を生きていくことになります。ひどい場合には大人対大人の典型的なコミュニケーションの場である、ビジネスの交渉現場に持ち込む者もいます。

彼らが体験で知っているのは、「遠まわし、正直でない、見下すかあるいは自己卑下、責任を負わない」というやり方であり、健全なやり方の真逆なのです。それを成人しても使う背景には「自分は弱者だ」と決めつけた誤った思い込みがあります。

遠まわし、正直でない、見下すかあるいは自己卑下という態度は、責任を負わないためであり、相手に自主的に行動させるための方法なのです。これは壁を見て、ひとりさびしく不機嫌にしていたら、相手が勝手に思いなおしてくれたという手法そのままです。

 これについて前者の場合をアサーティブ(正当に主張する)、後者をノン・アサーティブ(非主張的)またはアグレッシブ(攻撃的)と呼びます。

 さて、ここで冒頭に書いた、こどもというものが親、保護者が思う以上に彼らは不安を抱いている点に注目してください。こどもの不安は見捨てられることに集中しています。生活力のないこどもにとってそれは死を意味します。

自分の要求が通らないかも知れない。それを要求したら見捨てられるかも知れない。そう考えたとき、要求したくてもできないこどもがいるという点に注目してみてください。その一方で無邪気におねだりできる子がいます。彼らは正当に要求することが許されたこどもたちなのです。

 この両者の違いは、どこで生じたのでしょうか?
健全な家族では、ひとりひとりに自分の考え、意見を持つことが許されています。一方、自分の考え、意見を持つことに否定的な家族もあります。故意にそうでなくても、空気がそうだったという場合もあります。その時々でいろんな事情があることもあります。

いずれにしても過去にこだわり、親や環境のせいにしても意味がありません。いまもっとも大事なことは、ラケットを使わないことです。ラケットを使わないやり方をするには自分は幼児のように生活力がないわけではないという事実を再認識し「率直、誠実、対等、自己責任」を積極的に取り入れることを積極的に心がけましょう。

禁止令

こどもにとって重要なのは保護と愛情ですが、感受性の強いこどもは、一層敏感なので影響も大きいものです。敏感な子には、言語、非言語を問わず親のメッセージが強く浸透します。「お前は悪い子だ」というネガティブなメッセージは、「お前は生きる価値がない」というように届く場合があります。これが禁止令になって「お前は生きてはいけない」が入り込むと、病気がちな子になることがあります。破壊行為、自傷行為に走る原因になることもあります。

 禁止令とは「・・・・してはいけない」と命令です。ほとんどの場合、親・保護者から受けたメッセージで、彼らの固定化した考え方で、愚痴や小言を通してインプットされます。それは彼らが体験を通じて思い込んだことですが、その体験もまた禁止令の拘束を受けた行動の結果のものであると言えます。

 離婚など離別は親の問題ですが、こども特有の万能感が裏目に出て、自分の責任と受け取るこどもは少なくありません。すると「異性と仲良くしてはいけない」というネガティブで強い「禁止令」が効いてしまうこともあり、成人しても異性とのトラブルが絶えない人生を過ごすようになったりします。

 特に女性の場合、母親の入り込み方が強く、自分の身代わりのように母親が関わる傾向が強く、男性が父親から受けるよりも影響が強いので注意が必要です。双生児のようと言われる母娘の関係は仲睦まじいという点では理想でも、危険が含まれていることに注意しましょう。

禁止令のサンプル
・ お前は身体が弱い。働いてはいけない
・ お前は頭が悪い。勉強してはいけない
・ お前が男であることに落胆した。男らしく振舞うな
・ 人は働くために生まれた。楽しんではいけない
・ お前には取柄がない。自分を大事な人間だと思うな
・ 泣く子は嫌いだ。自然な感情を表してはいけない
・ なにもするな。世の中は危険がいっぱいだ。
・ 異性は信用できない。愛情を求めてはいけない。

禁止令は、次のような簡単な言葉になって人の心にしみこんでいるのです。

禁止令を後押しする言葉の例
・ (母親から)のろま
・ (父親から)不器用
・ (祖母から)やせっぽち
・ (姉から)口下手
・ (兄から)泣き虫
・(幼稚園の先生から)甘えん坊
・(小学校の先生から)音痴

さらに客観的に観てふさわしくない信念のように固定化した考え方が、世の中の常識のように繰り返し伝えられます。

・異性は信用できない
・人間関係なんていい加減なものだ
・兄弟(姉妹)は他人みたいなものだ
・商売は難しい。失敗が関の山

 女の子が欲しかった親が、男児に向かって「女の子だったらねえ」というようなメッセージを多発すると、「男であってはいけない」という禁止令のもとで、性の混乱が起こることも少なくありません。

禁止令によって「行きたいけれど、行きたくない。行ったところで、私にはいいことがない。」「やりたいけれどやりたくない、どうせ失敗する。」「愛したいが愛せない。どうせ私は裏切られる」というように考える癖がついてしまうのです。

これでは意思決定ができなくなります。それが慎重という点でいい場合もありますが、デメリットになる場合の方が多いようです。禁止令が働いていてネガティブな面を選択する癖があるからです。

 禁止令の背景には自己否定感、他者否定感の構えがあるため、ネガティブな面を後押しします。禁止令が働くと、真の欲求であるポジティブ面が抑圧され、ネガティブな面が表面にでてくるので、自分の真の欲求に率直に従えなくなります。

禁止令の背景には自己否定感、他者否定感の構えがあるため、ネガティブな面を後押ししますが、それによってますますうまくいかないことが出てきて、その失敗からまずます自己否定感が強まります。

他者否定感は自己否定感の裏返しである場合が大半で、他者否定感を持って他者と接していると、関係性は悪くなりこじれ自己否定感を強める結果を迎えます。その繰り返しは悪くなる一方になります。
禁止令が人間関係の基本的な構えにも悪い影響を与え続けるのです。

人間関係の構えは以下のように4つあります。

・ 自分はOK、あなたもOK (自己肯定・他者肯定)
・ 自分はOK、あなたはNO (自己肯定・他者否定)
・ 自分はNO、あなたはOK (自己否定・他者肯定)
・ 自分はNO、あなたもNO (自己否定・他者否定)

この内、否定のないポジティブなものはひとつしかありません。「自己肯定、他者肯定の自分はOK、あなたもOK」だけです。つまり大雑把ですが、1/4、25%の人しか自己実現できないという計算です。実際にはもっと少ないでしょう。

 幸福な人間関係を築くには、両者が 自分はOK、あなたもOKの構えでいて、実行していることが条件です。このような両者が家庭を持つと家族は健全に機能して、こどもも自分はOK、あなたもOKの構えで成長していきます。

 もし、不幸にして自己否定、あるいは他者否定の構えを持っていたとしたら、変更するように努力しましょう。パートナーには 自己肯定・他者肯定の構えを持つ人を選ぶのが賢明です。 自己肯定・他者否定、あるいは 自己否定・他者肯定の人をパートナーにすると苦労は絶えず関係もこじれる場合も少なくありません。

否定的な人を見分けることは、さほど難しいことではありません。彼らがラケットという手法を使うからです。

境界(ボーダーライン)

境界とは、人と人の間にある国境のようなものです。国境を超える場合にはパスポートが必要です。入国する際には審査を受けます。人の境界にはパスポートはありませんが、勝手に踏み込んでいっていいというわけではなく、マナーが必要です。

人と人の間にある「境界」は目には見えない、立入禁止の領域を示すものです。
境界の向こう側とこちら側には、互いに自分の世界があり、銘々の「人格」があり、尊重される権利があります。


次にあなたに該当する項目が、いくつあるか確認してみてください。

・依頼されたり、期待されたら、断ると悪いと思ってしまう。
・断っても安心な人には、平気に断ることができる
・相手の考えに合わせて、自分の考えを変えてしまう
・自分の意見を相手が受け入れるか不安で率直に言いにくい
・(自分を受け入れる人には、気を使わずに話す)
・相手が怖くて自分の思いを言葉にできない(安心出来る相手には平気で言う)
・欲しいものや必要なものがいえない(信頼している人には不満を言う)
・ひとの意見に合わせる(信頼している人には合わせない)
・自分で決断できない(文句を言って相手に決断させる)
・相手の気持ちのすべてを自分のものにしたい
・相手を自分に合わさせようとする
・批判されると落ち込む、カッとくる
・相手が悲しんでいると自分が後ろめたく感じる
・他者の責任を押し付けられる
・相手の問題解決に必死になる
・自分よりもひとの世話をする
・相手が楽しそうでないと自分が責任を感じる
・自分の幸せは相手にかかっていると思う
・相手の問題解決のために相手以上に躍起になっている
・相手があなたを幸福にしょうとしている
・相手があなたの問題を解決してくれる
・あなたを相手の力で幸せにしてくれることを期待している
・相手の不始末の責任を自分がとっている
・休んでいたら悪い気がする
・相手に自分の食事を選んでもらう
・許可なく勝手に部屋に入ってくることを許してしまう
・許可なく勝手に部屋に入る
・健康に障害が出るほどハードな仕事をさせられている
・相手が場にふさわしくない服装だと自分がはずかしい
・疲れているのに他者に世話をさせられる
・不機嫌な態度で相手を変えようと試みる
・自分を傷つけるひとと関係を続けてしまう(自分が相手を傷つけても平気)
・自分だけの時間が持てない(相手が自分だけの時間を持つと不安になる)
・暴力行為を受ける(暴力行為をする)
・勝手に性的な接触をされる(性的な接触をさせるようにする)
・約束を勝手に変更される(約束を勝手に変更する)
・自分のモノを無断で触られる(相手のモノを無断で触る)
・貸したお金を返してもらえない
・借りたお金を返さない

境界がないと、以上のような現象が起こります。

境界とは、憲法で定められている「人権」そのものですが、「境界」の認識が一般に広まっていないので、人権を権利と思い込んでいる人が多いようです。権利であることに違いはありませんが、相手の人権を自分と同じように尊重する、逆に相手と同じように自分を尊重することが大切なのです。権利というなら「尊重する権利、尊重される権利」と考えた方がいいでしょう。境界は自主的に緩めたり、締めたりできる柔軟なもので固定したものではありません。

 最近は、この境界が乱れています。頻繁に繰り返されるむごい事件が人権を守れない脆弱な人間性を物語っています。自分の思い通りにならないと暴力で思い通りにしようとして、それが叶わないとなると簡単に殺してしまう、というおぞましい事件はその典型なのです。自分と他者の境界が意識されていないのは、余りにもひどい話です。

昔から「親しき仲にも礼儀あり」と言われるように、境界は親子にも、夫婦にも、恋人にもあります。ところが境界のないことが親密さの証しのように思い込んでいる人もいます。このあたりは大変微妙です。たとえば恋愛や結婚のメリット、ワクワクというのは、依存できることが安らぎになっていることにあります。気持ちは理解できますが、やがては関係をダメにしてしまう危険を孕んでいるのも事実なのです。依存の関係は永くは続きません。

 境界を守ることは、他人行儀なことと思われるかも知れませんが、そんなことはありません。境界は固定した壁ではありません。境界は自主的に緩めたり、締めたりできる柔軟なものです。そこで境界がないくらい親しいというように錯覚することもあります。しかし「対等」であることを抜きにして親密さを語ると危険です。

境界を尊重するには、(自分にも相手にも)率直であること、(自分にも相手にも)誠実であること、(自分にも相手にも)対等であること、そして(自分にも相手にも)責任をとることが条件付けられています。もし、これら4つの要素のどれかひとつでも欠けると、無断で越境してしまう可能性が高くなり、どちらかが我慢するということが生じてきます。やがて関係は長続きしなくなります。

境界を越境していることに気づいて驚かれる方がたくさんいます。そこで自分が人間関係でうまくいかない理由を知ることも少なくありません。どうしたらいいのか戸惑います。その答えは、自分と同じように相手も大事にすることです。

自分がどう思われているかに注目するよりも、相手になにをしてあげられるかを考えて実行することが重要なのです。そうは言っても自分がどう思われているのか、気になると思います。そこで「なれる最高の自分になる‘」ことをめざします。それが幸福の扉の前に立った状態です。引き返さず扉を開けましょう。「なれる最高の自分」には、誰でもなれます。しかも進化を感じたると自己効力感が強くなりモチベーションも高くなります。

 ところがアンビバレンスな葛藤を抱えていると事情は変わります。自分にとって不都合な面を相手に投影して、相手の責任で行動させるように支配しようとします。たとえば異性を愛した場合、愛したくないを自分の感情にして、愛したいを相手に投影して相手の感情にするようにコントロールするのです。すると率直、誠実、対等、責任をとるという四つの要素は全部失い、支配欲だけになります。これでは境界は無断で侵犯することになります。

 なぜ、そんなに複雑なことをするのでしょうか?本人も大変ストレスの多いやり方です。それを理解するには禁止令とその働きを知ることが鍵になります。

アンビバレンス(アンビバレンツ)

テレビのワイドショーが特にそうですが、一度持ち上げたタレントがなにか不祥事を起こすと、嘘のように一転して、引き下げにかかるということがよく起こります。これはメディアの心理というより一般に見受けられる人間の心理なのです。

このような心理の背景には、アンビバレンスの問題があります。

 アンビバレンス(ambivalence)とは、「両価感情」「両面価値」「両価性」とも表現されます。分りやすく言えば、ひとつの事柄に対して、相反する考え、感情が無意識に存在することをいいます。

好きだけれどキライ。行きたいけれど行きたくない。食べたいけれど食べたくない。
指示に従いたいが、従いたくない。話したいけど、話したくない、愛されたいが、愛せないというようにひとつのことに正反対の感情を持ってしまうことです。

表現を変えるとポジティブ、ネガティブの2つの側面がはっきり分離してしまうと言えます。誰にでも目的を成就するプロセスではポジティブ、ネガティブになることはありますが、それとは少し違い、ポジティブ、ネガティブは交代に出入りするのではなく、同居しているといえます。相反する感情が同居していると、身動きできなくなります。

複雑な気持ちの裏には強い不安が潜んでいるのです。求める気持ちがなければ、それを否定する気持ちを持つ必要もありません。希求する心が自分が本当の欲求なのに、それがわからなくなる位に、抑え込む力が強いことがアンビバレンスの問題なのです。

問題は欲求が強くなると、否定も強くなる点です。結局願望が遂げられないことで葛藤が終わり安心するのです。でも偽りの安心は、やがて孤立を運んできます。孤独ではなく孤立です。最も恐れていた見捨てられ感を感じるのは、自分が自分を見捨てているからです。人は失敗に傷つくのではなく、やれることをしなかった後悔に傷つくのです。


 このような状態を誰も助けることは、ほとんどできません。自分に嘘をついているからです。しかし厄介なことに嘘をついている自覚がありません。欲求を抑圧しているので、自分の欲求に気がつかないので嘘の自覚がないのはもっともです。だから厄介なのです。その代償が孤立なのです。これでは自傷行為に他なりません。

自分の気持ちを未処理のままにして、行動すると相反する感情が湧いてきて行動していても葛藤が続きます。そうは言っても、なにが未処理の問題なのか、自分にも誰にも分からないのです。
ヘタをすると一生、未処理の問題に振り回され、 元来持っている自分の才能や努力によって蓄積したスキルが使えないまま、苦労が続くことも少なくありません。これでは何のための人生か、疑いたくなっても無理ありません。

実際に私のもとには、「生きていても仕方がない」と悲痛なお便りが後を絶ちません。また苦学して立ち上げたビジネスで一定の成功を見たにも関わらず、その後奈落の底に落ちていくように何もかも失ってしまう事例も繰り返し見ています。共通しているのはビジネスの失敗というより生き方の失敗が原因なのです。

 ですから出来ることからやるようにしましょう。まずすっきりした行動をして集中できるようにするために、アンビバレンスの問題をクリアしておきましょう。アンビバレンスは比較的、把握しやすい問題なので手をつけやすく解決しやすいのです。

それにしても、人生早期にネガティブな体験をした人にとって、欲求に忠実に行動することには危険を感じることが少なくありません。自分の行動に対する責任を引き受ける自信がなく、勇気が不足しているのです。それを責めるのは苛酷であり、つらい体験と共に痛みと不信がしみ込んでいるのはムリもありません。

特に幼児にとってもっとも重要なのは、名誉でも財産でもなく、愛情と保護を最も必要としていたことを思うと、幼少期になんらかの理由で愛情と保護の不足を感じた場合、臆病になるのは仕方がないことなのです。アンビバレンスは、その仕方なさから生じてきます。
物心がついてきた頃に父親との離別があると、異性への不信と共に、子供特有の万能感が裏目に出て、自分のせいで離別が起こったと感じてしまい、自己否定感に苛まれます。時には強いトラウマになることも珍しくはありません。
成人しても、異性の誠実な好意に向き合うことになっても、なにか裏があるのでないかとか、いずれ突然離れてしまうのではないかと不安がよぎります。

 そこでアンビバレンスが生じて、はっきりとした確信が得られるまでは、率直な態度は見せないというように頑なに繰り返し確証を求めるようになります。ネガティブな面からのアプローチになるので、「好きだけど」は隠されてしまい、「好きじゃない」が表に出できます。デートに誘われても、「行きたい」は隠されて「行きたくない」が意識されます。しかしいくら隠しても、希求する気持ちがあるので抑圧され、抑圧が不十分だと、反動形成という形をとって抑圧しようとします。

反動形成とは、まったく反対の表現をすることです。抑圧が抑え込むだけなのに、対して反動形成は積極的に反対の態度や意見を表現するようになります。相手は表現されたことを真に受け止めるか、あるいは混乱します。コミュニケーションは、言葉だけでなく態度、表情などボディランゲージも含めて行われているからです。それらに一貫性がないので混乱するのです。

いわゆるツンデレはその典型的なもので、分かっていれば、同性からも、異性からも、かわいいと評価されることも少なくありません。しかし、実際には危険が潜んでいることは知っておいてほしいものです。いつまでも続けるのではなく、できるだけ早くアサーティブに自分を表現していくようにしましょう。

好きな人を困らせて内心喜んでいるのは、注目されることがうれしいわけで、そこには愛情の希求が存在しています。しかし相手が誠実に受け止めて反応したからといって改善されないのは、アンビバレンスから脱することができないからです。
ですから、その場にふさわしくないコミュニケーションが続くことに対して、助けてくれと言っている声が聴こえるような気がしても不思議ではないのです。

しかし、どのような深い愛情を持ってしても助けることはできません。人は他者を変えることは出来ないからです。それはいい意味でも、残念な意味でも「境界」があるからです。私はあなたではない。あなたは私ではない。だからこそ愛することが尊いといえます。アンビバレンスに拘束されたツンデレは、それを破壊します。

プロローグ

自分に良いところがあると考えているこどもは31.5%しかいないそうです。自信がないようです。
うまくいかなかった、ささいなことが深い傷をつけてているようです。
悲しいね。

ところが、自分が好きな福井のある小学校では67%が、自分には良いところがあると思っているそうです。学校の教育や風土の影響が大きいようです。

 自信がないということは、これから自信つけられるということ。
どんどん行動して自信をつけていけばいい。

自分が「ガンバレ」というときは、「がんばってきたね」の意味を含んでいます。その人を信じているのと、それ以上にその人の痛みを理解しているからです。だからガンバレには、その痛みを無にしないでほしいという祈りを込めています。

でも「ガンバレ」だけでは言葉足らずなんですよね。

「ガンバレ」以上に「がんばってきたね」が大事なのに、そっちが引っ込んでいる。

よく知りもしない間柄なのに、「がんばってきたね」というのはテキトーに言ってるとしか思われないか危惧するからです。

でもね、ホントのところ、知っているのです。
見てたら分かる。その人がどんな旅をしてきたか。

 だから「大変だったね、がんばったね」の思いをこめて「ガンバレ」と言う。言った後に悲しくなる。何もしてあげられないのが悔しい。世界のどこにいても力になれるように、せめてもの思いを込めて書き綴っているのです。

 ところで、あなたは運命を信じますか?運命の人は存在すると思いますか?努力すれば報われると信じますか?

運命も、運命の人も存在するのです。残念ながら努力だけでは報われないのです。なぜなら、あなたがそうするからです。運命を創っているのはあなた自身だからです。努力しても報われないのは、あなたが邪魔をするからです。

ドラマのように「あなたの運命脚本」をあなたが書いているのです。書いた覚えがない。確かに。だから問題なのです。意識の上で、あなたは成功を願い、幸福になりたいと考えています。

しかし、その一方で、あなたの自覚しないネガティブな運命脚本をあなた自身が無意識で書いていたとしたらどうしますか?

 ここでは運命脚本がどのようにして創られ、どのような運命脚本を書いているのか、それを知る手がかりと対処の方法についてお話しましょう。あなたにどうしても話しておきたい大切なことです。
 
 人は,同じ教育を受けて,育っても、同じようには成長しません。当たり前ですが、どうしてこんなにも、ひとり、ひとり違うのでしょう。
環境が違うといっても、人々は同じような環境だと思いながら暮していることも事実。隣の同級生は流行の品を持っている。だから私も欲しい。ありふれた日常の向こうにある、ありふれないひとり、ひとりのプロセスが、違う人、違う生き方を育くんでいるのです。

しかし、その一方で人の身体の仕組みが同じように、人の心もメカニックなものなのです。幸いにも、「ここが傷ついたら、こんな障害が生じる。」というように数多くの研究とレポートが報告されています。

それでは、自分の人生を自分が望むように過ごせるように、そのヒントを語りましょう。

 自分が好意を持っている異性から、好意の意志を表明されました。しかし、育ってきた環境に父親、あるいは母親が欠けていたとします。異性との親しみのあるコミュニケーションを体験していないと、親しみを持ちながら、自分の安全を確保する距離をとる方法がよく分かりません。

 こんなとき、どうしたらいいのでしょう?
親しくすることは自分をさらけ出すことです。しかし段階的に距離を縮めていく方法を知らない者にとって、それは想像以上の不安になることが少なくありません。心を閉じたままでいるか、すべてをさらけ出すか、相手と周囲の人がいるので自分だけの問題ではないのです。

と、言っても勘違いしないでください。世間体や自分を抑えることを推奨しているけではありません。
間違ったコミュニケーションは、関係性をこじらせてしまい、結果的に自分を傷つける原因になるからです。

間違ったコミュニケーション、つまり自然な感情にふさわしくないネガティブな言動をとって、こじらせてしまうコミュニケーションのことです。

自分の気持ちを言葉にできない
やりたいことがはっきりしない
したほうがいいと判っていても、行動にうつせない
人と交際するのが億劫になる一方で寂しい
恋愛に溺れてしまう
パートナーとの関係が新鮮さを失い希薄になっている
仕事との距離があいまい。
子育てに関心が薄れ、自信がない。
なぜ、私は苦しいのか。
そう感じる一方で、こんなものだろう。という気がする。
自分がどこに行こうとしているのか、分かっているような、分からないような。
曖昧で、不安で、苦痛である一方で、なんとなく幸福な気もする。言いようの不満の裏には一番大切な親密な愛情が欠けている場合もあります。あなたのストレスは、あなたへのサイン、気づきのチャンスです。

孤独からの逃避で恋をして、私はあなたのもの、あなたは私のものと、間違った甘美な関係を最上として境界が混乱したまま結婚します。
間もなく日常に疲れて口も聞かないことも起こってきます。
私はあなたのもの、あなたは私のものという幻想が崩れて、とまどいます。
なぜ、どこで、そうなったのか、分からないまま、互いの間にはミゾ(時に境界の別名)があることに気がつきます。

 コミュニケーションをこじらせる要因がいくつかあります。それは、こじらせるために欠かせない技術と言ってもいいでしょう。「こじらせるため ! 」「ため!?」
そういうと、ほとんどの人は疑問に感じるでしょう。誰も好き好んでこじらせていないと思うからです。

確かに意識の上ではそうですが、自分でも認識できていない目的があり、目的を果たすために行動していたとしたら、どうでしょうか?後で、「なんであんなことをしたのだろう?」……そう思った経験をしたことはないでしょうか?
そう思った時、人はほとんど偶然のこととして,済ませています。しかしそうでない場合が少なくないのです。なぜなら「隠された目的」があっての行動だからです。

前置きはこのくらいにして、人間関係をこじらせる上で欠かせない要因と、その目的、どのようなやり方で目的を果たしているかについて、次のことを説明していきましょう。

アンビバレンス(アンビバレンツ)
境界
禁止令
ラケット
万能感
コントロール
運命脚本
トリッキーな交流
さらに自分を再生する方法について説明を加えます。

あなたが人間関係をこわしている手順
仕掛けからはじまる
こじれだす関係
カモにされる人
トリッキーでドラマティックな関係の変遷
再生
ネガティブなサイクルからの脱出の方法「運命脚本」の書き直し
以上の問題は、あなたご自身の身近な問題とリンクさせて、ライフスキルEラーニングで詳しくご説明しています。

ここでは簡単に説明していきます。